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こんなもんなの~?

趣味の写真を添えて、日々の『戯言』を・・・

欲しがらない!! 

『 はたらけどはたらけど なお我が生活楽にならざり、じっと手を見る 』

石川啄木の有名な句である。

我が生活(暮らし)楽にならざり・・・とは言うももの、果たして ”楽” とは何であろうか?

貧乏で、好きな事も出来ず、贅沢も出来ないとでも言うのか?

最近のご時世にあって、「格差社会」 が声高に叫ばれるが、格差は今に始まった事ではない。

大燈国師は、「座禅せば 四条五条の橋の上、ゆき来の人を 深山木と見て」 と。

悟りを開いた大燈国師なればこそ、乞食の真似をしていても言える言葉だが、

我が凡夫では、孟子が言うように、「恒産なくんば、因って恒心なし」 である。

高齢化社会が進み、下級(貧困)老人は増えるばかりと相成った。

自ら進んでなりえた貧乏と、強制的貧乏(やむを得ず)とは、充分区別をしなくてはならない。

心身の健全なる発達も叶わない貧乏は、決して社会の利益とはならない。

2%の金持ちが、80%の富を手にしている現状、いびつな富の配分には困ったものである。

『 貧 乏 と は ・・・』

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先日の事、妻が観劇で午後から外出した。

晩飯を私が作るのも不便だろうと、若い女性(と言っても、娘だが)が夜のオカズを差し入れてくれた。

我が習慣として、朝飯はパンと卵と野菜と果物。 昼ご飯は、簡単に。 夜が一番のご馳走か?

それにしても、今回のような豪華なオカズを口にする事は、先ずはナイ!!

美味さに舌鼓しながら思う事は、「貧乏って、一体何だろうか?」 と。

「身のほどをしり からげしてかせげば 貧乏神のつくひまもなし」 とも言われ、

また、「身をつとめ 精出す人は福の神 いのらずとても守りたまわん」 とも・・・

生活保護を受けながら、酒を飲み、煙草を吸い、ギャンブルや違法ハーブに手を染める輩も多いと聞く。

”貧乏” と言う事は、いくら働いても貧乏は免れないという 「絶望的な貧乏」 であろう。

考えてみれば、金持ちに成るのも、貧乏に成るのも、その人の努力の結果であれば、

貧乏を社会の所為にするのは卑怯と言えるのかも?

『 欲しがりません、勝つまでは 』

なる言葉が、戦時中に流行った事があったが・・・

考えていれば、需要があるから供給がある。

資本主義の世界では、人が要望すれば物はどんどん作られ、豪華贅沢品が次々と生産される。

下層階級の人が望むような品々では、思うような利益の確保が出来ないので、おのずと利益幅の大きなものが。

金持ちはそれでもイイが、貧乏人は増々貧困へと引き込まれる。

社会主義を称賛する訳ではないが、資本主義の悪い点でもあろうか?

国民が健全なる肉体と精神が保たれる事を、一番とすれば・・・今しばらくは 「欲しがりません」 が重要であろう。

すれば格差社会も少しは改善され、貧富の差が縮まる事であろうか。

生活必需品は、80%を占める ”貧乏人” が消費している。

利益の追求のみに走っていれば、贅沢品は消費されるが、貧乏人は増々貧乏へと落とされる。

差し入れされた豪華なオカズ(私にとっては)を口に運びながら・・・

ついつい考える事って、「こんなもんなの~?」



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category: 雑感

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縄文人の ”死生感” 

『 死穢の恐怖と、哀惜の念 』

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      集団埋葬は、家族・親族の埋葬方法だったのか?

日本列島を北から南へ眺めてみれば、亜寒帯から亜熱帯へと連なる、ほぼ温帯地域である。

雨もよく降り、湿度も高く、死体は腐りやすい。 膿に蛆が湧いた光景は見ていても気持ちの悪いものである。

「古事記」 や 「日本書紀」 を見れば、古代からの ”死穢の恐怖” を伺う事も出来る。

黄泉の国が地下他界と考えた事は、伊弉諾・伊弉冉の死体腐乱をみればよく解かる。

土葬という死体処理法は、”ヒト” が考え出した方法であるが・・・

遠くに遺棄するよりは、近くに埋葬する事を選んだ。 そこには哀惜の念が湧いていた事を伺わせる。

『 共有される、” 死の概念 ” 』

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        屈葬は胎内の姿と言うけれど・・・

犬や猿の世界では、仲間が死しても死体処理はしない。 死んだ事の理解が無いからであろう。

猿の世界では、死んだ子を何時までも抱く母猿の姿がある。 親の愛情と思われるが、けっして哀惜の念ではない。

”ヒト” だけが知り得た、”死の発見” とは一体何であろうか? 其れは ”死は概念” と言う事。

事実が理解され、概念化され、言語化される事だ。

「古事記」 や 「日本書紀」 には、 ”死の世界” という言葉は見られない。

”黄泉の国” も日本語ではない。 中国の言語の借用でしかなかった。

『 消える命に、”死” の発見をする 』

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          この世に未練を残し、蘇らないようにと?

”ヒト” が進化の過程で発見した概念が、”死” である。

地球上で無限に増殖する動物、それが ”ヒト・人間”である。

人知をもって、あらゆる環境に適応し、絶大な生殖力を発揮し、この世にはびこったのは脅威と言える。

長い歴史の中では大災害・疫病をはじめ、殺戮や戦争など人による犠牲も数えればきりがないが、

残酷で悲惨な事のようであるが、数の適正性を考えれば、しごく全うな事なのかもしれない。

この様な進化の過程な中で、”ヒト” は ”死” の発見をしたのであろう。

『 ”死の発見” が、宗教の始まり 』

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          飼い犬は家族同然、埋葬も・・・

”ヒト”は 死の発見をする事により、生きる意味をも知る事となった。

ここに、”この世” と ”あの世” の他界概念・霊魂観念が芽生えだした。

”死の発見” は、”宗教の誕生” をみる事となった。

死は生理ではなく、概念文化である。遺体処理や埋葬方法も時代や地域の文化により様相は違う。

以前、青森・三内丸山遺跡を訪ねた事があった。大規模集落の中の入口にきれいに並べられた遺骨が。

古代から現代に脈々とつながる葬送の歴史は・・・「畏怖と祭祀」 から始まり、「忌避・供養・記念」 へと。

何処の遺跡や博物館でも、埋葬された人骨や犬の遺骨を見る事ができる。

展示された遺骨や埋葬方法を見るにつけ、思う事は ”死の発見” が ”宗教” へとたどる道筋。

考えさせられる事は、現代人の宗教観と死者の埋葬方法。

意味を失い、形式のみの葬送に、無駄と意味の無さを思う。

縄文人に学び・考えさせられる事って、「こんなもんなの~?」




category: 雑感

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想像する楽しみ 

『 進化する人工物 』

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          新築復元なった竪穴住居

700万年前から ”ヒト” は進化し、サルにも似た動物から複雑な道具を作り言語を用いだし、

縄文時代になると村を作り、国家までをも築き、地球上には ”ヒト” の造ったもので溢れかえるようになる、

各種の石器や土器・土偶の制作をはじめ、”ヒト” の人知は固有の複雑な認知を生み出した。

”神の存在” や ”美の意識” は、文化や複雑な社会を生み出し、物質文化の発展を見るようになる。

野宿にも似た生活様式から、竪穴を堀り藁や萱で屋根を葺き、見事な竪穴住居に住むようになった。

集落の個性や見事なまでの竪穴住居には、いつもながら感心させられるだけだ。

『 定住化による、家財道具の発展 』

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      口縁部には二本の隆帯・撚糸紋が美しい、加曾利E式土器

野山で小動物を狩りし、森ではドングリや山菜・キノコの食料を手にし、豊かな食生活を営んでいた。

特筆すべきは”海の幸” であろう。

食糧難が叫ばれる現在、養殖技術も目まぐるしい程の発展を見るが・・・

縄文人は、海からはアサリ・ハマグリ、アワビやサザエをはじめタイやアジ・サンマなど豊富な魚類を。

全ての魚介類は捕れたての新鮮なままでのお食事!! ”生き造り” 羨ましい限りではないか。

火を用い、食料の保存方法を身につけた縄文の ”ヒト” 、生活様式には学ぶべき点も多いようだ。

『 失われたのは ”モニュメント”? 』

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           此処は ”日時計” の跡地?

加曾利貝塚は世界的にも有数な規模を誇るが、開発はほんの20%程度か?

巨大な8ノ字形の貝塚の周りには住居跡が点在するが、その中で気になる跡が、

恐らく住居跡であろうが、この空間を或るモニュメントが・・・石を配した日時計の跡地と想像すれば、

冬至の日の出、夏至の日没、環状列石の並びが示す線上の彼方にはどんな山が見えたのか?

何もない跡地から、こんな想像をするのも、遺跡の楽しみ方ではなかろうか?

カメラ片手に遺跡の散歩、想像する楽しみって、「こんなもんなの~」


category: 雑感

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私は セトモノ? 

『 そういうわたしは いつもセトモノ・・・』

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               国指定史跡 ” 加曾利貝塚 ”

「 セトモノと セトモノと ぶつかりあうと すぐこわれちゃう

どちらか やわらげば だいじょうぶ やわらかい こころをもちましょう 」


ACジャパンのTVコマーシャルである。 横断歩道で肩ぶつかり合い ”ニラメッコ”。

最近は若い人も老人も、些細な事ですぐ ”キレル” 。 本当に物騒な世の中になったものだ。

『 ”ヒト” も ”サル” も、似た者同士 』

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                  史 跡 案 内 図

生物学的・行動学的にみても、心理学的にも、”ヒト” と ”チンパンジー” の社会には共通性がある。

平等社会ではなく序列社会であると言う点が・・・

生物の本質は競争であり、環境の中で生き残るには有利な形質が重要となる。

平等という関係は、個体間では成り立たないのである。

”ヒト” も ”サル” も、厳しい序列のある複雑な社会環境の中で進化した。

こう考えれば、”ヒト” も ”サル” も、似た者同士と言えはしないか?

不平等社会は、”サル” も ”縄文人” も例外ではなかった。

『 智慧の進化が、大規模集落を作る 』

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        南貝塚 貝層断面観覧施設入口

文字は無かったが豊富な言語を使い、火を用いる事を発見し、道具を利用す事が出来ように、”ヒト” は進化した。

バラバラに生活していた ”ヒト” は、家族構成をし徐々に集団化する方法を見出した。

初めは家族が二・三軒の小集団であっただろうが、だんだんと多くなり、それでもせいぜい5~10家族の集団。

加曾利遺跡に見られ様な大規模集団(環状集落)は世界的にも珍しいものである。

豊かなコミュニケーションが物質文化を発展させ、その結果が大規模環状集落へと繋がった。

『 縄文時代は、果たして ”平等” だったのか?』

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            竪穴住居跡と貝塚断層

太陽を神と仰ぎ、神聖なものと火を大切にした縄文人は、アニミズムの世界に身を置いていた。

”ヒト” の中には、道具造りに巧であったり、シャーマン的能力に長けていた人が現れるのは当然の成り行きだった。

そんな人が、集団を率いていくようになるのが縄文人世界であった事だろう。

誰でも平等という時代から、徐々にではあるが集団を率いるものが現れ出す。

定住がもたらした地域のまとまりは、特別な能力を持つ者が上に立つようになる。

”平等主義” から ”階級序列制度” が生まれた瞬間であった。

近年、世界中で格差社会が叫ばれるが、”不平等” は縄文から始まっていたのだ。 平等は観念でしかナイ!!

『 環状集落に、高度な技術と構成を見る 』

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          貝殻・動物骨が蓄積跡

世界でも有数の規模を誇る 「加曾利貝塚遺跡」 。

直径170mと130mの大規模は馬蹄形貝塚で、8の字形をした特徴を持っている。

此れ程までに大規模化した要因には、千葉県という全国でも一番温暖で食物に恵まれた場所だったからである。

貝塚には、動物の骨だけではなく、様々な道具類・装飾品をはじめ、埋葬された人骨までも見る事ができる。

最も重要な事は、此の貝塚では食した後の殻の捨て場ではなかった事であろう。

縄文人が、貯蔵技術を身に着けた事が伺われる。

貝を生身で食しただけではなく、この場で干物や燻製にした事である。

加曾利貝塚遺跡から伺われる事は、”平等” から ”階級・序列” へと進化した事で、

環状の中心は墓域となり、其の外側が住居域となり集落を形成し、

墓の位置や副葬品の違いから現実の序列が伺われる事であろう。

肉体的・精神的・能力的に高低差がある事は、何時の世にも否定は出来ない。

”平等” から ”序列” が発生した原因だが、忘れてはならない事は・・・

”倫理観” も、縄文人が初めて身に着けた事ではなかろうか?

現代人はありとあらゆる物を手に入れ、近年 ”格差社会” が声高に言われるが、

その前に言うべき事があるのでは。 それは ”倫理観” の喪失ではなかろうか?

遺跡を回りながら考えた事って、「こんなもんなの~?」



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古民家の風情 

『 民家の面白さは、縁側にあり 』

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夏の暑い日差しを陽陰にし涼しく、冬は陽が当たり暖くなり日向ぼっこを。

御婆ちゃんが糸を紡ぎ衣服の繕いに、また孫を遊ばせ、行商人が来れば商品を広げ、

ご近所の人々がやって来て、腰を掛けたり話し合ったり、縁側は集いの場でもあった。

『 田舎暮らしを羨望するのは、縁側での ”縁作り” なのか?』

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田舎を楽しみ旅をするのは、縁側での見知らぬ人との出会いを求めてなのか?

村々を歩いていると、縁側で楽しそうに話をしてたり、一声かければ仲間に入れるし、

何より良いのは、朗らかな笑顔ばかりで、メソメソしていない事でしょう。

村人の生活話や伝説を聞けるのも、旅の楽しさの一つでしょう。

縁側は一見すれば不必要にも思えるが、生活に潤いを与え、何より人々をして仲良くさせてくれる。

誰にでも開放的な縁側は、日本だけに見られる特徴ではないでしょうか?

『 糞尿は宝もの?』

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便所が民家に必要な存在となったのは、きわめて遅れていたようだ。

農家では、糞尿ほど大切な物もなかったのが原因であろう。

化学肥料の無い昔は、農作物の栄養源は便所に溜まる糞尿であった。

便所を室内に設けると、取り出すのに一苦労。 庭に便所を設けたのは生活の知恵?

比叡山や高野山では、元々は川の流れの上に便所を建てていた。 ”かわや” の語源でもある。

冬の厳寒の北陸などでは、便所が小屋になっている。 ”雪隠” と言うのは雪からの寒さを防ぐ為で、

曹洞宗の大本山・永平寺では、便所は ”雪隠” と書かれているのも其の為だ。

『 ”蒸し”、”煮炊” 用に・・・』

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火の大切さは、なにも縄文人だけではない。 原始の住居跡をみてみても、囲炉裏は土間に設けてある。

暖房効果も炊事の便利さも、明かり採りの意味も兼ねて、土間に火を用いるには土間が最適だった。

生活上 ”カマド” は、大きく暖房用というより炊事用としての比重が大きくなった。

”釜” を載せる場所を ”カマド” という。 釜と鍋の違いは、周囲に羽やツバが有るか無いかである。

蒸すためのコシキで、コメ・イモなどの澱粉質の物を、鍋では肉や野菜など色々な物の煮物用に用いた。

カマドが対になり造られているのは其の為である。

『 お坊さんも、縁側から入る 』

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佐倉の武家屋敷もそうであるが、武家の家にいは玄関が設けられている。

普通の人は土間から入るが、大切な客は玄関から入ったようだ。

玄関の無い農家や民家では、縁側から室内に入ったものだ。 農村では今でもお坊さんは縁側から。

古民家をみる度に想い出すのは、幼い頃の我が家である。

玄関は無く、三和土には久土があり、廊下の一番奥に小さな便所が・・・

記憶を甦らしてくれる古民家の風情って、「こんなもんなの~?」


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昔日を偲ぶ 

『 意外と質素な武家屋敷 』

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           佐倉市・鏑木小路の武家屋敷通り

佐倉の武家屋敷は、道路に接する部分を正面とし、門を構え、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けている。

屋敷の裏側には菜園などを設け、屋敷境には境界木が植えられている。 背後は竹藪などの斜面である。

『 左奥の小部屋(二畳)には、下男が?』

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          旧・河原家住宅 (千葉県指定有形文化財)

旧・河原家住宅の建築年代ははっきりしないが、古文書によれば弘化2年には存在していたと言われる。

建築様式は、構造・部材の風蝕などに古い要素が見られ、佐倉の武家屋敷の中でも、最も古い部類に入る。

移築前・解体調査中に見られる痕跡と、古文書などと突き合わせ失われていた部分を再現している。

玄関を入ると十畳の座敷があり、次の間を挟んで居間・仲の間・茶の間と続く。

5坪ばかりの板の間の奥に、湯殿と厠が設けられている。 西側に男部屋と土間があるが、下男でも居たのか?

『 兵どもが、駆け上がって来たのか?』

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           佐倉の古径 ” くらやみ坂 ”

城下町の道は、突き当り部分や大きく屈曲する部分が設けられている。

このような配置は、敵の侵入を防御するように工夫されている。

”鏑木小路” や ”袋小路” ”宮小路” には、この様な細く薄暗い急坂が作られている。

『 立派すぎる屋敷、さすが槍術師範の居宅 』

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        旧・但馬家住宅 (佐倉市指定有形文化財)

”くらやみ坂” を挟んで、旧・河原家と旧・但馬家が並んでいる。

武家屋敷の中でも最大級の建造物で、屋敷地の形状や植栽に武家屋敷の特徴をよく残している。

1830年前前後の建築と推定され、誠心流槍術師範の井口氏が初めて入居したという。

広々とした四畳の玄関。 十二畳半の座敷があり、中の間を通して囲炉裏を構えた居室がある。

六畳の茶の間に六畳の納戸、そして広々とした土間と板の間が設けられている。 贅沢な造りである。

『 竹の簀子に隠れた、消防用具 』

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          築地塀は、土手と生垣の珍しいもの

築地塀の役目は、土手と生垣で代用している。他の武家屋敷では見られない特徴で、昔ながらの景観を保っている。

簀子の役目は何? と気になったので案内人に問えば、「あれは飾りで、中には消防栓とホースが」 と。 納得・納得

『 ”泥臭さ” が性に合う?』

土間・・・古民家や武家屋敷を訪ねる度に想う事がある。 土間の変遷である。

遺跡を訪ねると、縄文人の造った竪穴式住居が必ずある。 堀り窪めた土間、其の上に屋根を張ったものである。

こんな家は現在では無くなっているが、明治の初め頃までは竪穴式でなくても、

土間にも籾殻や藁を敷き、其の上にムシロなどを敷いて暮らしていた家が多かった。

縄文人と言わなくても、近年まで土間住まいは当たり前の事だった。

後に床住まいが始まったのも古く行われていたようだが・・・古墳時代にも、平安時代にも其れを見る事ができる。

武家屋敷に土間が設けられているが、果たして武士に土間が必要だったのか?

土間住まいから床住まいへと変遷し、暮らしの様式も変わってきた。

土間を見る度に想うのは・・・土間こそ、生活の原点であったのだ。

土間では、農作業を行い、煮炊きをする久土や囲炉裏までも設けられ、はたまたお産も土間に筵を敷きしたと言う。

古民家や武家屋敷が好きなのは、こんな ”泥臭さ” が好きな性分だからなのか? と思うことがある。

土間に想う事って、「こんなもんなの~?」


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温暖化は、自然の成り行き 

『 氷河期の日本列島 』

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日の出づる国・日本は、何時頃からどうして出来たのか?

それを考える時、地球環境の変動がもたらす歴史を振りかえる必要がありそうだ。

一万五千年前に最終氷河期が終わり、平成の現在までは間氷期と言われる時期にある。

氷河期が終わりを告げる頃は、津軽海峡も日本海の一部も大陸と陸続きであった。

アフリカを発した人々は、アジア大陸を横断し、あるいは海岸伝いに日本列島にやって来た。

可能性としては、五万年前以後に西から来たホモ・サピエンスが初めて列島に来たのであろう。

氷河期の日本列島地図を眺めれば判るように、此の地球は寒冷期と温暖期を長い年月をかけ繰り返した。

温暖化・温暖化と叫ばれる現在であるが、現在の地球が温暖化に向けて時を刻んでいる事は事実である。

先進国の発展途上で、さらには此れから発展をするだろう国々の ”CO2 問題” も無視する訳ではないが、

必ずしも排出する ”CO2” だけで地球の温暖化があるのではない。 地球そのものの変動に拠るものである。

と言って、温暖化を更に促進する原因の一つには相違ない事は、誰でもが認める事であろうか。

『 主食は、マンモス? ナウマンゾウ? 』

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日本列島にやって来た人類の最初の足跡は、氷河時代と言われる気候の中、

海水面も100mも低くなっていた幾度かの機会に、陸続きになった大陸や海面伝いに大陸から渡来したのであろう。

その時期の日本列島では、マンモスやナウマンゾウが多く棲息し、人類にとっての最高の食料であった事だろう。 

いやいや、それらの食料を追い求めて、大陸から日本列島に渡って来たのが自然と考えられる。

原始人の動きの大きな波が、人口増加と生活様式に大きな変化を、年月をかけ引き起こされた。

寒冷期にあって農耕の術も無く、また植物資源もない時代には、最高の食料は動物の肉だったに違いない。

旧石器時代には、50年以下10年に満たない短いサイクルで寒暖の差が大きくなっていたという。

農耕技術が根付かなかったのは、この激しい気温の変動に因るものであろう。

その中で、身近にある木の実や他の植物を口にしていた事は充分推察できる。

貯蔵技術を持たない渡来原人は、さばいた大型動物の肉は、土に埋めたり塩漬けにでもした事であろうが、

植物の食料は手に出来る時以外は、保存方法も知らず、口には入らなかったのではないだろうか。

全ての物が手に入る現在・・・

人類は、後世に命を繋ぐ事の重大さより、 「より多くの欲望を満たす」 事に最大の努力を払っているのでは?

仏教の教えに、『十二縁起の法』 なるものがある。 あれも欲しい・これも欲しいと固執するから苦があると言う。

断・捨・離は言われて久しくなるが、 今置かれている環境に満足すれば、これも苦からの脱出方法の一つなのだが。

現代人からすれば、原始人は何事にも ”術” は持ち併せていなかった。

では、原始人は不満の中にだけで生活していたのか? そうではなかったと思うのだが・・・

原始人の ”持ち併せていなかった智慧” に学ぶ事って、「こんなもんなの~?」

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母性に願いを・・・ 

『 ウルトラマンの原型なのか?』

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加曾利貝塚では、土偶や土器を作る愛好家の教室があるようだ。

その中の会員が創作した土偶だが、縄文後期に椎塚貝塚で発見された土偶を再現したもののようだ。

豊かな乳房は縄文土偶そのものである。

『 天空を仰ぎ見ているのか?』

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腕を広げた、実にのびのびとした土偶である。

鋭利な道具で描き出された胴部の細密文様。

体つきは奇妙だが、刻まれた文様は繊細で巧妙である。

奇妙なアンバランスが人々を魅了してきたのであろうか?

『 花瓶として使っても、面白いかも?』

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縄文中期の鋳物師屋遺跡から発掘された、筒形土偶を模して作られたようだ。

頭の上に穴が開いていたか?どうか?は判らないが、花瓶としても意外性が強く面白いのではないか?

花瓶の様な奇妙な土偶であるが、中空土偶で中に土玉を入れ、鈴の機能を持たせたのかもね~。

『 埴輪を思い起こさせる土偶 』

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ネックレスを首に掛け、腰にも装身具を?

顔の表情は、埴輪の原型になったのか? 垂れ下がった柿の種状の目に、口の表情はため息を?

『 授乳中なのか? 愛し児を抱く土偶 』

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脚の形が自然で、横座りで授乳中なのか? あやしているのか? 我が子を抱く微笑ましい土偶だ。

このような土偶は、縄文中期の最盛期でも目にする唯一の稀品土偶だ。 完全無欠であれば国宝にも?

何気ない日常の、母親の姿を表現した土偶である。

果たしてこのような土偶の目的や用途はどんなものなのか? 想像を掻き立てられる。

『 土偶は、何故女性像ばかりなのか?』

イギリスの著名な考古学者・V・G チャイルドの名言に、

「人類が、最初に応用した化学変化の産物こそが、土器である」 と。

そのままでは使いようもない粘土だが、土の神・水の神・火の神に ”神のなせる技” が加われば、

全く違った硬い重宝な物質へと変化する。 この化学変化に畏敬の念を人類は抱いたに違いない。

変化する自然現象に、例えば太陽の運行に、木や草花の再生に、そして母親から子孫への継承に・・・

旧石器時代のチェコ共和国から、土器も無い時代に、なんと粘土で作った女性の人形が発見された。

人類最初の土器は素焼きの焼き物・・・”女神” だったのである。

神の力によって為せる素焼きの制作物に、女神・女性を選んだのは当然の帰結であった事だろう。

輪廻転生を願い、それは女性の成せる神秘性に・・・

最初の土偶が女性像なのは自然の成り行きであったのだ。

女性の偉大さに驚きを隠せないのは縄文人も現代人も同じことであろう。

土偶を眺めながら思い事って、「こんなもんなの~?」




category: 雑感

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終わり良ければ・・・ 

『 菜の花~畑に~、心惹かれ 』

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 咲いた咲いたチューリップの花が~ 

        赤・白・黄色 どの花見ても綺麗だな~


赤・白・黄色と華々しい花畑ではないが・・・黄色一色のジュータンにも心惹かれるものがある。

関宿は江戸川沿いにある地。 道すがらの江戸川土手沿いは今が盛りと菜の花が満開だった。

『 色は匂へど散りぬをる・・・空海の夢なのか? 』

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清水公園に隣接し、宗祖・弘法大師 空海の古刹、真言宗 「金乗院」 がある。

弘法大師は、天台宗開祖・伝教大師 最澄 と並び称される平安仏教の二大祖師である。

色は匂へど散りぬるを (諸行無常) わが世誰ぞ常ならむ (是生滅法)

有為の奥山今日超えて (生滅滅己) 浅き夢見し酔ひもせず (寂滅為楽)


あの有名な 「いろは歌」 で、『大般涅槃教』 の偈である。

七五調の歌は、仏教的無常観を示し、空海の姿を垣間見る事になるが、

実は、此の 「いろは歌」 に潜む無常を引き出したのは、真言密教中興の祖である興教大師・覚鑁だ。

空海は、奈良仏教の華厳系学僧でもあり、『華厳経』 に関心をいだいていた事は想像に難くない。

般若三蔵に師事し、華厳の芳香に多大な影響を受けた空海であるが・・・

真言宗の寺院を訪ねる度に想う事は、果たして ”空海の夢” って、何だったのか? と。

『 ”テキヤ” 今昔物語 』

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「金乗院」 境内では、花見客相手に ”テキヤ” が店先を並べていた。

私が子供の頃は、祭りや花見には ”テキヤ” の店先で、子供たちが楽しく遊び色々なお菓子を口に運ぶ光景があったが、

最近では昔のように子供たちが戯れるシーンを目にする機会もめっきり減ったようである。

祭りにしか小遣いを貰えず、この機会を子供たちは心待ちにしていたものだが、

時代が変われば ”テキヤ” 商売も、栄枯盛衰の理というところなのか。

『 残り物に、福がある?』

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おっと失礼!! 残り物なんて言っちゃて~。

”辛夷” にも ”桜” にも見放されたような一日だったが・・・

此処に来て、満開の桜が楽しめるなんてね~。

広大な公園は起伏に富み、この広場の近くには池があり、こちらも花見客で一杯だった。

中之島公園の ”辛夷” にも関宿城の ”桜” にも見放された格好だったが、

最終寄り道の野田市の清水公園で、満開の ”桜” を楽しむ事が出来た。

表現は少々違うが、「残り物に、福がある」 ? それとも「帰り道の駄賃」 ?

いずれにしても、終わり良ければ全て良し!! って、「こんなもんなの~?」 



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帰路の駄賃? 

『 行き掛けの駄賃ではないが・・・』

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中之島公園の ”辛夷” を観に行ったのだが、なんとも哀れな姿にがっかりした。

公園の手前には、”関宿城” が在るので、ついでに観光をと思った。

四月になったので、桜も満開か?と、楽しみにしていたが、残念な事に此方も寂しいかぎり。

まぁ、”辛夷” が本命だったので、”関宿城” の桜は、「帰り道の駄賃」 とでも言えばよいのかね~?

『 門を潜れば、日本庭園が・・・』

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”関宿城” は、野田市関宿三軒家のスーパー堤防の上に建設されたもので、

かつての ”関宿城” を模して天守閣が再現されている。

天守閣の後ろ側には日本庭園が併設され、桜を楽しみながら一息つけるのも、また乙なものと思い足を運ぶが・・・

『 粋な黑塀 見越しの松、とは言うが・・・』

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豪壮な城石には、櫻花が似合いそうだが・・・三分咲きでは、少しばかり寂しいよね。

平日であったが、家族連れも多く、カメラ片手に桜を撮影する人も見受けられた。

『 天守閣からの眺めは・・・?』

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日本庭園を散策(?)しながら天守閣を仰ぎ見れば、併設された ”関宿城博物館” にも入ろうかと思うが、

このシーズンになっても、水が流れていないなんて・・・博物館も大したものではないのかな~?と。

『 さすが野田市。”醤油のラベル” ときたか~ 』

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博物館への入り口に掲げられた幟には、「醤油ラベルの大集合」 と。

そういえば、野田市は 「キッコーマン醤油」 の発祥の地なんだよね~。

昔は野田の町に入ると、いたる所から醤油の香が漂っていた。

博物館では、「川と海と人~あそぶ・親しむ・守る~」の企画展が開催中だが・・・案内人に聞けば、入る気も失せる。

常設展では、「房総の河川」・「河川交通と伝統産業」 展があると聞くが、カメラ撮影禁止と言うではないか。

¥200 払ってまでも観る気にならなかったので、つい失礼して踵を返した。

”辛夷” にも、”城石と桜” にも、また ”博物館” にも少しばかり残念な思いをした一日だったようだ。

自宅から往復150㎞も車を走らせたのにね~。

観光流行りの昨今だが、期待外れの観光って、「こんなもんなの~?」

いやいや、”帰り道の駄賃” だから、こんなもんでしょうよ。


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樹木医さ~ん 

『 江戸川は、此処から始まる 』

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利根川から、此処・関宿で二手に分かれ、枝分かれした方が、江戸川流れとなる。

関宿は、千葉県の最西端。 一見、利根川と江戸川の三角州のようだが、江戸川は人工の川である。

その昔、江戸川も決壊し氾濫した事があったが、此処の流れの穏やかさを見ていると、その記憶も薄らぐ。

『 哀しいかな、哀しい哉 』

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江戸川の源流を見に来たのではない。

関宿には、その昔 ”関宿城” があったが、今の城はきんねんに新築したもので、”関宿博物館” を併設している。

橋を渡った所は ”中の島公園” で桜の木は少ないが、関東一の 「辛夷の木」 が有名。

何年か前に一度、関宿城に来た時、この辛夷の木の大きさに感動した覚えがあり、再度見に来たが・・・

満開のシーズンというのに、見るも情けない姿を晒していた。

枝の大木は切られたのか?折られたのか?北向きの枝は枯れ果てて蕾すら付いていない。

以前見た満開の辛夷は見る影もない姿を・・・”哀れ” とは、この事を言うのであろうか?

樹木医さんに依頼して、元通りの元気な辛夷の木にして欲しいと思うのは、私だけではないと思うのだが。

『 水閘門の功罪・・・』

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江戸時代になり一番困った事は、江戸の町が水不足になる事だった。

そこで利根川から水を引くために江戸川は引かれた。

当初は、川の両岸から丸太棒を数千本打って川幅を狭め、江戸川への流れを調整するもので、

洪水を江戸川へ入り難くする役目を果たすものであるが、

棒出しが造られた事によって、江戸川沿いは洪水から守られる反面、

関宿周辺や下流の利根川沿いの村々では、水害を被る事となった。

『 棒出しに使われた、”棒出しの石” 』

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棒出しは、当初の木材から玉石積みの改築されたが、洪水で破壊されたため、明治になり角石積みに改良された。

この関宿水閘門は、昭和2年に建設され、棒出しは以後撤去される事となった。

火成岩の角石は、栃木県の岩船山で切り出され、渡良瀬川を船で下って運んで来たという。

満開の辛夷のを見に来たのだが、あまりにもの姿に哀れを感じたが、

江戸川の始まり地点と、水閘門を知り得た事が、せめてもの慰みなのか?

何事も、思うように行かないって、「こんなもんなの~?」



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