記憶に残る街
2015/05/16 Sat. 20:00 [edit]

”いしい” の敬語が、”おいしい” であり、元々は女性語であった。
「源平盛衰記」 で、清盛の前で仏御前が艶やかに舞った時、清盛は ”いしい、いしい” と褒め称えた。
「太平記」 では、”いしかりし時は、夢窓にくらはれて” と・・
”いしい” とは、美事美事であり美味美味と言う訳である。
佐原の街を散策していると、若い女性が真剣に ”あぶり餅” を焼く練習をしていた。
手馴れていないのか? あまり上手くは無いようだったが・・・
観光客から舌鼓を打ち、” いしい・いしい (美味しいよ) ” と言われたくて練習に励んでいた。
『 ”ソフト クリーム” は、上菓子なのか? 』

街中で、ソフトクリームの蝋造りの見本が目に飛び込んだ。
”ソフトクリーム” には、今でも想い出す程の印象が心の奥に・・・
60年前の事だった、下関市・大丸百貨店に立ち寄った時の事、
当時は、百貨店の食堂で何かを食べるなんて、”ハレ” の日ぐらいのものだった。
メニューに、”スウェーデン・クリーム” なる大そう美味しそうな看板が・・・
父が注文をしてくれ、後生大事に食べた事は、”ソフトクリーム” を見るたびに想いだす。
江戸には幕末になるまで、駄菓子と上菓子という二種類があったという。
京都から下って来た茶道と菓子が上菓子で、
後に上菓子も民間に普及し製法が素人に向けられ伝授され、駄菓子と言われるようになった。
菓子文化の話の一つに・・・
アメリカ総領事・ハリスに、幕府から四段重ねの真田打ち紐付の檜のお重に入れられた豪華な菓子が届いた。
その菓子の形・色合い・飾り付けの美しさに目を奪われたハリスは、
「アメリカに送れないのが残念だ」 と日記に記されているようだ。
百貨店で食べたスウェーデン・クリーム(ソフトクリーム) は、当時の私には上菓子その物であった。
一年中、何時でも好きな時に食べる事が出来る、ソフトクリーム・・・
果たして、上菓子なのか? それとも駄菓子なのか?
『 職人の技に、しばし見惚れて・・・』

黒檀・紫檀など唐木で、”耳かき” を制作中

”みたらし団子” を、炭火で素早く焼き上げる手際の良さ
『 退屈そうに・・・』

乾物店の御主人が、店番していても客が来る訳でもなく、手持無沙汰そうに・・・
店主の少しばかり背を丸め、何を見るでもない眼差しに、
江戸の昔より乾物で栄えた店だろうが、観光客にとっては乾物を買う客はいず、
時代を経た藏の店舗が、時の経つ重みを感じさせる。
ご主人の姿に一抹の寂しさを覚えながら、一枚カメラに収めた。
小江戸・佐原での楽しみって、「こんなもんなの~」
category: 雑感
コメント
おはようございます。(^-^)
私が小さい頃に食べたかったのは、トコロテン・・・おばあさんがリヤカ-を引いて売りに来てました。
それから、バナナ・・・口にすることは、誕生日くらいのものだったでしでしょうか。
冷たいものは、アイスクリン・・・少しざらついた感触が、気持ちよかったですね。
その頃のことを思うと、今は何と美味しいものだらけの世の中になったんでしょうか・・・!!(◎_◎;)
昨日は、剪定の後、腰が痛くなってしまい、夕方から寝込んでいました・・・今はだいぶ回復しました。(*^。^*)
無理は禁物
”妖精ポージー”さん、こんばんは
”ところてん” とは驚きでした。 私の家は二軒長屋で、片方の家では戦後 ”ところてん” を作っていました。
と言う事で、”ところてん” とはね~?ですね。
そう云えば、バナナとタマゴは、普段は口に入る事が少なかった時代でしたよね。
小学一人の時学校の傍を、進駐軍の車列が轟音を響かせ通過していた。
車上から、チューインガムやチョコレートを投げてくれ、其れを拾うのに皆教室を飛び出した。
テレビで途上国の子供達を見ていると、戦後の我の姿を見る様な気がする。
「年寄りの冷や水」 ではないが、無理はしないで!!
ぎっくり腰の辛さは私も経験済みですが、腰は大切ですよ~。
植木の剪定・・・以前、私は庭師に弟子入りを、と思った事もあった。 出来る筈もないのにね~。諦めて正解でした。
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