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こんなもんなの~?

趣味の写真を添えて、日々の『戯言』を・・・

火事と喧嘩は・・・ 

『 火事と喧嘩は、江戸の華 』

清親が描いた図は、両国橋の両岸を描いたもので、明治時代最大の東京の火事であった。

火元である神田松江町の火勢は墨田川を超え本所・深川へ、回向院(右派)へと飛び火が迫っているようだ。

荷物を担ぎ右往左往する人々、半纏に大工と掛かれた人が火の方へと駆けていく姿、

子供の手を引く女性など、大変緊迫した情景が伺える。

忍び返しがある料亭には、提灯やモダンなランプが吊下がるが、火の手は無情にも料亭を灰と化す。

「武蔵・下総、両国へ掛りたる橋なるゆえに、両国橋と名付けるなり」 と言われた名橋も、

度重なる災害により、幾度も架け替えられる運命を辿った。

明治30年の川開きの人出の多さに耐えきれず、無残にも落下。

「火事と喧嘩は、江戸の華」 なんて言われるが、世の無常さを感じるね~。


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          「浜町より写両国大火」 小林清親 「東京名所図」



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         江戸の大工宅・・・長屋の仕事場風景  江戸博物館展示

『 火事と喧嘩・・・大工冥利に尽きるね~』

火消は、」江戸町人の憧れの職業だった。

人口の50%が武士だった江戸の町。 明暦の大火など、度々重なる江戸の大火。

「大名火消」 「定火消」 をはじめ、江戸では 「町火消」 が組織設置されていた。

「町火消」 は、”いろは四八組2” と称され墨田川より西域を担当し、東は 「十六組」 が編成されていた。

「町火消」 は、普段は職業を持ち、火事になれば火消に変身 ”鳶” と呼ばれた。

当時の火災は、延焼を食い止めるために家屋をぶち壊すので、鳶職人がうってつけであった。

火事が発生すると、鳶職人が組の印を描いた纏を立て駆け付けた。

我が組が火消をする!!と、組同士が対抗意識をむき出しにし、争い事も多発した。

こんな事から、「火事と喧嘩は、江戸の華」 なんて言葉が生まれたのである。

江戸では火事がしばしば発生し、大工だった火消たちは考えた・・・

次の仕事へと鳶口で家屋を次々と壊したようだ。 つまり ”景気浮揚” の観念があったのであろうか?

江戸で食い扶持を稼げるのは、大工をおいて他にはなかったようだ。

屋根の上で纏を振り、鳶口で家屋を勇ましく引き倒す鳶職人は、”心意気(粋)” の代表格だった。

大工は人気第一の職業だったのかね~?

江戸の大火と大工を思う事って、「こんなもんなの~?」



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category: 雑感

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